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| 上町台地には風情のある坂道が現在も残されています。この付近には寺や神社が非常に多く、その名をつけ、あるいは坂の形から逢坂、天神坂、清水坂、愛染坂、口縄坂、源聖寺坂、真言坂と呼び天王寺七坂といわれています。 |
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| 生島神・足島神を祭る延喜式名神大社です。地元では、いくたまさん(生玉さん)とよばれ親しまれています。記録によると、孝徳天皇大化元年(645)すでにあったことが知られており、国土の神霊として崇敬されました。
当初は石山本願寺(大坂城の位置)に隣接していましたが、石山合戦のとき焼失、その後は秀吉の大坂城築城により現在の位置に移されました。
社殿は生國魂造と称し、全国神社に例をみない特殊な様式で、現在の鉄筋コンクリート造にも遺されています。この神社で例年行われている
「大阪薪能」(8月11日〜12日)は、昭和32年に始まり、今や大阪の夏の風物語として重要な年中行事となっています。 |
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十三まいり(太平寺)
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| 徳川時代の中頃から江戸の「七五三」に対して大阪、京都で盛んになった行事であり、虚空蔵菩薩は13歳になった男女が菩薩の縁日である3月13日、
4月13日に参詣すると福徳智恵を授与されるといわれています。また、太平寺には医師北山寿庵が生前自から建てた石造りの北山不動の像や、祇空文塚などがあります。 |
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大阪星光学院と清水寺(清光院)との間の坂道で、愛染坂と交わるまでの広いゆったりとした石畳の坂道です。清水寺の北側にあるためこの名で呼ばれています。
高台にある清水寺境内からの眺望は格別で、さらに境内南側の崖から流れ出る玉出の滝は、大阪唯一の滝として知られています。
また、この付近一帯は昔から名泉所として知られ、増井・逢坂・玉出・安居・安栖(土佐)・金龍・亀井の清水は七名水と呼ばれています。
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| 一心寺は、法然上人が文治元年(1185)の春、慈鎮和尚の請により四天王寺西門の坂のほとり、古来「荒陵」と呼ばれてきた茶臼山近辺の現在の地に四間四面の草庵を結び、荒陵の新別所と称して止住したことに始まります。
後白河法皇は天王寺参詣の途次この草庵を訪れ、上人と床をならべてともに日想観の観法を修せられたと伝えられています。江戸時代のおわりごろから、せがき法要と納骨、とくにその納骨によって造立される骨仏によって知られるところとなり、
また断酒祈願の本多出雲守の墓をはじめ、俳人小西来山、八代目団十郎ほか芸能人多数の墓もあります。 |
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| 推古天皇元年(593)聖徳太子によって創建された飛鳥時代の代表的な寺院です。創建の由来について『日本書紀』は次のように伝えています。蘇我馬子と物部守屋の権力争いが排仏・崇仏の両派の武力抗争に発展しました。
馬子側に参戦した聖徳太子は、乱平定のあかつきには寺塔を建立することを四天王に祈願して、首尾よく物部氏を倒し、馬子は大和に飛鳥寺を、
太子は難波の荒陵(あらはか)の地に四天王寺を建立しました。それは国家鎮護を願い、難波の港に面して国威を誇示するためでもあったといいます。
中心伽藍は、南大門・中門・塔・金堂・講堂が一直線上に並び、中門の左右から延びる回廊が講堂に連なるという四天王寺式伽藍配置の典型であり、
近年の発掘調査によって、堂塔の位置は創建以来ほとんど変わりがないことが実証されています。現在の中心伽藍は、昭和38年、その旧位置に飛鳥様式で復元されたもので、
鉄筋コンクリート造りとは思えない美しい姿で創建当時を偲ばせてくれます。幾多の災害に見舞われましたが、西門石造鳥居は、永仁2年(1294)建立の寺内最古のもので、
ほかに本坊方丈・六時堂など元和9年(1623)の建立の建造物が戦災からも免れて残っています。 |
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勝鬘院(愛染堂)(多宝塔) 天王寺区夕陽丘町5 (金堂:指定文化財、多宝塔:重要文化財)
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| 聖徳太子が四天王寺を建立したとき、敬田・施薬・悲田・療院の四院を造営しましたが、その一つ施薬院の後身で、太子が勝鬘経を講讃した霊場といわれ、愛染明王をご本尊に安置するため、
俗に「愛染堂」ともいわれています。境内の多宝塔は、慶長2年(1597)の建造といわれ、全国有数の大きさを誇り、市内唯一の桃山時代の遺構で国の重要文化財です。
一般には愛染さんとよばれ、愛染まつり(6月30日〜7月2日)は大阪の夏祭りの幕開けとなり、宝恵駕篭が出て賑わいます。 |
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